上ばかりを見続けていると、急に下のほうが不安になる。ルーツとは、そういうものかもしれない。生まれた場所、育ってきた場所、父、母、家族。反発もあっただろうし、となりの庭が青いと思ったこともないわけではないが、何かが変わるとき、はじまるときに、もう一度、立ち戻りたくなる。

それというのも、年を重ねれば重ねるほど、自分から抜けきれない何かが、まざまざとみえてくるからである。私でいうと田舎者である、ということ。その裏返しとして、ミーハーであるということ。いつも何か最先端のものが足りない、という強迫観念があって、それを満たすために、旅に出る、情報を仕入れる。知っていること、尋ねられること、が喜びの源泉なのは変わらない。その先の、経験している人との差は、最終的には埋まらない。だから僕は伝える人となった。

さて、勉強家とは、つくる人なのか、伝える人なのか。結局、自分自身のバランスをとるために、両方を行き来することが大事なのかもしれない。勉強するのは伝えるため、光を当てるため。自分自身とその対象とのインタービューを言葉にして届ける。私にとっての作品は文章である。作品を通じて、世界を伝えること。

では、それを読みたい人とはどんな人だろう? 論文とのちがいは、貢献する対象である。ひとりよがりにならないような発見の伝え方とはなんだろうか。例えば、ここに記している原稿の文章は、モーニングページとは、いくぶんか文体が違い、文字もそれなりに読めて、再現可能なので、多少は伝えようと試みている。しかし、私自身に興味のない人にとっては、関係ないし、興味のわかない部分もある。結論は?と言われても、書いてから気づくこともあるからである。

と、つらつら原稿用紙に向かって書いてみて、確かに私は型から入るタイプなのであるが、型に引っ張られる、というのが正しいだろう。ミーハーであるとは、自分を通り道にしながら、型をつくるための審美眼を磨く行為である。

そうそう話は、ルーツのことだった。こんなことでは終わらない800字であった。