「死ぬまでに行ってみたい場所」から勉強する

「死ぬまでに行ってみたい場所」を挙げていくと、出てくる出てくる。アイスランド(温泉とオーロラ)、アイルランド(ケルト文化)、フィンランド(サンタのふるさと)、シベリア(アナスタシア)と、秋田生まれの僕にとっての憧れの場所は、どうにも雪の気配が漂う。

とはいえ、これらの行き先はずっと封印していた。なぜかといえば、ひとたびフタを開けてしまうと行きなくなるからである。20代ならまだしも今や家族がいて、僕の一存では決められない。それでもなお行かねばならぬ場所が出てきたら、それは何の導きだろうか。確かに自由は減ったが、意味の濃度はどんどん高まっていく。

自分の欲望や感情をコントロールするために、シャットダウンしてそのことを考えないようにするのは、生き抜くための知恵である。とはいえ、「死ぬまでに行ってみたい場所」というパンドラの箱は、もしかしたら開けてみてもいいものかもしれない。その結果、何が引き寄せられるのか、そういう実験をしてみる。

思い出すための糸口は地図である。あたまのなかで地図アプリを起動して、六大陸、北極、南極…火山活動と大陸移動と隕石に左右された数奇な地形を眺める。エーゲ海の孤島、アレキサンドリア図書館、ジョルジュ・ペレックがすごした場所、826インターナショナルの各チャプター… あるいは日本でピンチアウトして、出羽三山、三内丸山遺跡、熊野、伊勢、西宮…かたよっている気もするが、どんどんスループットの手が動く。

地図(マップ)の真髄は思い出しやすくすることである。アイデアを思い出すための“アイデアの地形”といった場合、どんな地図が描かれるだろう?

再現できること、できないこと

さて、死ぬまでに行ってみたい場所について考えを進めてみると、「行かないとできないこと」と「身近なところで再現できること」のふたつに分けられることに気づく。

例えばエーゲ海に行きたいと思ったのは、スーツケースに本を詰め込んで、水辺線を望む孤島で読書をしたいがためだった。きっと何かの映画か小説に影響を受けたのだと思う。もちろん絶景の感動は再現できないが、それなら瀬戸内海に最高の読書空間を求めてもよい。そうやって整理していくと、その場所を訪ねようとする意図がますます明らかになる。

多くの場合、旅はふと行くものではないから(もちろんそれもいいし、本当は憧れているけれど)、事前にある程度の計画を立てる。いつだって旅の下調べはワクワクするし、それもまた旅の一部である。そして旅の計画こそマイカリキュラムのデザインの格好の対象となる。もちろん旅先で行き先が変わることもあるから、十分な余白は残しつつ。

人生の最後に食べたいもの」は普通なら一度きりだが、「死ぬまでに行きたい場所」は複数選択が可能である。「死ぬまでに行きたい場所」を振り返ることは、「どこに行くのか」よりも「いつ行くのか」という導きに、耳を傾ける作業である。

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