人生の最後に食べたいものから勉強する、ということ

勉強するのは何のため? 苫野氏は「<自由>になるため」という。なるほど、そうかもしれない。僕ならこうかな。「勉強とは布石である。」
 

囲碁をそもそもたしなんでいないのだから、この言葉があっているのかはわからない。言葉を自分のものとするために勉強するのであれば、囲碁もリストに入れておこう。「自分の言葉にするために勉強する」というのはありだな。あ、これも布石だな。

そうそう、布石の話であった。布石とは、対局の初めの段階における石の並べ方である。比喩的に「将来に備えて行う手配り」とある。布石を打つ。見通しはそこまでつかなくてもよい。いつかその局面に差し掛かったときに効いてくる。その位置によって、中盤、終盤で大きな差が出る。

いま必要な知識をたくわえることは、凌ぐべき局面では大事である。僕なら、いま文章の書き方について見直すことは布石ではない。しかし実はこれは半年前に打っておいた布石と再び相まみえたのだ。最初に触れたときはざっとだったが、いまは「文章の型をつくるためにはどうしたら?」という問いとともに見直す。というよりも、布石の段階で、「ああ、僕は型を知りたいと思っているのだな」と気付いてはいた。でも、脳のどこかに放置していた。こうしていま巡り巡ったとき、布石が無意識に自らの行動を規定していたことに、嬉しくも知る。

では、「人生の最後に食べたいものから勉強する」とは、どんな布石になるだろう。最後の晩餐で食べたいものランキングは、どうやら鉄板コンテンツのようだ。日本人の25%は「すし」を挙げるというから、半端ではない定番さである。理由はさまざまにあり、そこが興味深い。「最後の晩餐」で調べていくと、死刑囚の最後の食事を収めた写真集などもあるようだ。ひとつの食事さえもドラマが詰まっている。

自分が死ぬ前に、本当は何を食べたいのか。すしと答えてみたが、本当だろうか。もし、本当だとすれば、どんなすしが最期にふさわしいか。歯と舌が健康である前提であるというのも、いまの思い込みにすぎないかもしれない。現実はわからない。それでもなお、母なる海から生まれたいのちの源に、自然の奇跡に、宇宙的なつながりに感謝しながら、いのちを全うしたいのだろうか。

すしに対して受け身でいたいと思っていたが、最期はyosh兵衛、あるいはyosh翁として、魂を込めて握った一貫を、誰かに食べてほしいのかもしれない。人生の最後に食べたいものから勉強する、ということは、自分の死様への布石なのである。

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